皆さんこんにちは。
いよいよです。いよいよ、8月が過ぎ去るとともに、リーグの季節がやってきました。
本日(8月31日)は、女子部の決勝トーナメント一回戦が行われました。
結果は3-4で横浜国立大学に惜敗し、次戦以降は、9位以下の順位決定戦を行うこととなります。
詳しい結果は現役の報告を待つこととしたいですが、本当に、どっちが勝ってもおかしくない接戦であったことは、述べておきたいです。
来年のリーグに繋がるよう、残りの試合も精一杯戦い切ってほしいと思います。
また明日(9月1日)は、男子部の決勝トーナメント一回戦、創価大学との試合が行われます。
一度でも負ければ昇格の望みは潰えるとあって、厳しい戦いが予想されます。
それでも今日、遅くまで練習に打ち込む選手たちを見ていると、より上を目指したい、という気概を感じたのも事実です。
僭越ながら、大学院生という身分を最大限利用し、現役の力になれるよう応援していきたいと思います。
今月、本学の図書館では、次のような企画展示が行われていました。
東京学芸大学大学史資料室 http://www.u-gakugei.ac.jp/shiryoshitsu/exhibition/ より
展示の内容は、東京学芸大学が小金井の地に移ってからの約70年にも渡る年月における、地域社会の発展を、様々な史料やデータ、写真などから明らかにしていくものでした。
現在、ご存じかとは思いますが、東京学芸大学は、小金井キャンパスのみが大学用地として使われています。
「学芸大学」駅に学芸大学が無い、ということをなかなか分かってもらえない方も多かったのではないでしょうか。(そもそも東京芸大なんかと間違えられることも多いのですけれど。)
展示の内容は、非常に興味深いものが多く、「学生」の活動が盛んだった時代の小金井祭のポスターなど、なかなかに衝撃を受けるものもありました…。
発足以来の学生総数の変遷や、空中写真など、是非皆様にも見て頂きたい、面白い展示でした。
当然のことですが、それらをwebを通して皆様にお見せすることはできません。
が、僕の中で沸いた疑問は、「いったい、庭球部って、今創部何年なんだろう?」「当時の庭球部の活動は、どのようなものだったのか?」というものでした。
そこで、少しだけ大学に関する資料を漁って、現在に至るまでのテニス部の沿革を紹介していくことを思い立ちました。リーグの時期にこそ、硬式庭球部という組織の持つ、伝統を少しでも確認しておきたい、という意志によるものです。
今月号は、現役の様子をお伝えするものとは少々ずれますが、是非最後までお読みください。
※以下の内容において、展示内容に加え、『東京学芸大学二十年史 ――創基九十六年史――』1970年 を参考文献としています。著作権保護の観点から、図・写真の引用や文章の直接引用を控え、あくまで私安松の主文に関する参考資料として、活用しています。
1949(昭和24)年、戦後教育改革の中で、旧師範学校をもとに東京学芸大学は成立しました。東京学芸大学は現在、小金井キャンパスのみに置かれていますが、かつては世田谷・竹早・大泉などに分校を持っていました(現在では、附属学校がある場所となっています)。
これらの分校は、1960年代までに順次廃止されるとともに、現在のキャンパスの原型が作られました。展示された資料の中には、1955(昭和30)年の地形図や1956(昭和31)年のキャンパス配置図がみられ、当時の様子が窺い知れます。
※いずれも、掲載したかったのですが、画像を取り込むことの難しさに加え、著作権侵害をおそれて、文章での説明とさせて頂きます。
・「東京学芸大学小金井分校見取図」(昭和31年3月末現在)
当時、まだ小金井キャンパスに一体化する前段階におけるキャンパス図です。
実は当時、キャンパス内には「アマネ」という会社が存しており、キャンパス図では現在のN棟の位置にこれを確認することができます。
というのも、第二次世界大戦後、かつては陸軍技術研究所があったキャンパス内には、農場・工場等がしばらくは存続しており、「アマネ醸造」は最後まで残り続けた工場でした。
同時期の世田谷キャンパスには「運動場」が確認できるのみですが、こちらにはしっかりと「テニスコート」の文字があります。
場所は、現在のグラウンド(テニスコートの左側、サッカー場・陸上トラックがあるグラウンド)に当たる場所です。
・「東京学芸大学小金井地区配置図」(昭和44年3月末現在)
昭和44年になると、キャンパスの形態は現在にかなり近くなります。
そして、テニスコートも「球技コート」という名称で、現在の北門テニスコートの場所に位置付けられています。ただし、現在の南3・4面にあたる場所は、「幼稚園教育」の研究棟があり、当時は7面あったようです。
こちらのクレイコートが、僕も知る北門のクレイコートと同一のものだとしたら、実に40年近く武蔵野の赤土が使われていたことになりますが…いかがでしょうか。
残念ながら、課外活動にまつわる資料のうち、閲覧できるものが非常に少なかったため、分からず終いでした。
小金井キャンパス前身は、陸軍技術研究所であったことは有名な話です。現在でも、キャンパス東側の門のことを「プール門」と呼びますが、これは現在ではローソンが設置されているあたりに、舟艇実検を行うプールがあったためでしょう。これらの土地が大学用地として確保され、小金井キャンパスへの統合を目指すことが教授会で決定されたのが、1955(昭和30年)です。
1955(昭和30)年がどのような年かと言えば、硬式庭球部創立の年であるとされます。東京学芸大学教務補導部が1975年に配布した『学生便覧』の「課外活動団体」リストや、東京学芸大学学獅会が発行する機関誌『学獅』創刊号(1993、平成3)にも、創部は昭和30年の4月であると明記されています。また、現在庭球部内務組織が管理している『硬式庭球部名簿』に載っている最初の卒業生は、昭和31年卒のNさんという方でした。(なお、Nさんは私と出身高校が同じだと記憶しており、入部した当初、運命めいたものを感じたものでした。)
なお、本記事を書く際に『東京学芸大学二十年史 ――創基九十六年史――』 を大いに参照しているのですが、こちらには創部は昭和32年4月とありました。庭球部の管理するデータに、31年卒の方がいらっしゃることからも、おそらく昭和30年が正しいことと思われます。
昭和30年は1955年、現在は2015年ですから、現在の庭球部は、創部60周年の記念すべき年であるといえます。
因みに、軟式庭球部の創立は昭和24年4月とありますから、こちらは東京学芸大学が発足した当初から設置されていた組織であるといえます。現在でこそ錦織圭選手をはじめとして、硬式テニスは広く親しまれていますが、当時の国内でテニスといえば、軟式テニスであったことでしょう。どのような経緯で硬式庭球部という組織が生まれたのかは、今となっては窺い知れませんが、名簿を頼りにすれば当時の部員は決して多くはなかったようです。
1980年代のテニスブームと共に、テニス人口は急激に増大したとされています。
――60年という伝統の積み重ねの上に、現役が活動できていること。
それは、当時の先輩方が、硬式テニスを部活として取り組む、という強い意志のもとに組織をつくったことに始まっていることを、初めて知ることとなりました。
当時の様子を知る上で、頼りになるのは、東京学芸大学硬式庭球部OB会編『きずな ――東京学芸大学硬式野球部史――』(平成17年12月発行)です。野球部OB会結成30周年を記念し、各年代のOBから寄稿して頂き、回想録という体をなしています。昭和30年頃の学生の課外活動の実態を知る上で、非常に貴重な資料であるといえます。
昭和30年頃の野球部の活動は、小金井を中心として行われていたようです。しかし、各科3年生になると世田谷での学習が行われていたため、平日は世田谷に集い、日祝日は小金井で合同練習を行っていたようです。
戦後の物不足の中で、相手チームとグラブを貸し借りしながらも野球に取り組んでいた様子が、様々な方の文章で寄せられていました。
テニスコートは世田谷にないので、庭球部は小金井で活動していたのでしょうか。こちらも、実態を知る資料がありませんでしたので、推測の域を出ませんが…。
現在では、硬式庭球部は、東京学芸大学の「学獅会」という体育会組織に編成され、日々の活動を行っています。
部活動の実態などを知りたく、図書館を探し回っていると、学獅会の機関誌『学獅』の創刊号を見つけました。こちらは、平成5年に発行されたものです。奇しくも、平成5年といえば、現在男子部・女子部の両主将が生まれた年でもあります。
その中の、「部活紹介」にはしっかりと庭球部のページもありました。当時の主将がどなたかは申し上げませんが、活動紹介にあった、リーグへの熱い想いを紹介して、締めくくりたいと思います。
最終目標は春に行なわれるリーグ戦です。リーグ戦で昇格できた時の気持ちは言い表せない程です。又、降格した時には全く逆の気持ちになります。そんな事にならないように我々は日々、練習しているのです。
「日々の練習」の積み重ねの上に、リーグを迎えることになった現役諸君の活躍に、一層期待しつつ、
また、庭球部の60年という節目の年が、昇格という結果に終わることを祈念しつつ、
稿を閉じたいと思います。
OB1年目
安松拓真
付記
『学獅』の部活紹介の次の一節が面白かったので、紹介します。
大学で運動といえば「テニス」しかないでしょう。テニスをしていれば、女にもモテモテ、女性の方は、すぐ彼氏ができることでしょう。……男性の諸君、女性は一生懸命にやっている人に傾いていきます。一生懸命にボールを追っている姿に、きっと心が動かされるでしょう。そして、一生懸命になるからこそ上達も早くあっという間におもしろくなり、テニスのとりこになるはずです。
大学の課外活動に関する史料がほとんど閲覧できる状態になく、想像の域を出ない記事となってしまいました。
本記事について、ご存じのことで誤りなどございましたら、是非コメントを頂けると幸いです。また、当時の部活動の状況など、直接先輩方にお伺いして、記事にすることも今後検討していこうと思います。